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「グラスホッパー」の解釈

2010/04/19
数年前に買ったグラスホッパーを再読。
というのも初見では気づけないネタが仕込まれているという話を耳にしたからです。
伊坂幸太郎の小説は読みやすいので、とりあえずさくさく読んでみました。

ストーリーを簡単に説明すると、まずこれは伊坂お得意の数人の視点から物語を紡ぐ形式の小説です。
鈴木 妻を殺された復讐のために、復讐相手のいる非合法な組織に社員として潜入
鯨  相手を自殺させる能力をもつ殺し屋
蝉  ナイフを使う殺し屋

この三人の視点で物語は進んでいます。
序盤に鈴木の復讐相手である寺原(長男)が目の前で殺されます。
殺したのはどうやら「押し屋」と呼ばれる殺し屋で、鈴木はその殺し屋を追うことを命じられ、「押し屋」槿の家に家庭教師として潜入します。
鯨と蝉もそれぞれの思惑で「押し屋」を追う事になり、三人の物語は徐々に絡み合いながら収束していくって感じの話です。

こういった形式は伊坂お得意の手法ですし、残酷な描写や救いようのないこと(結局鈴木の妻が殺されているのはどうしようもない)も伊坂らしくさらっと書いてあります。

なぜわざわざ記事にしたかというと、読後の自分の解釈がネットで色々見たのとちょっと違っていたから。

以下ネタバレです。


















この小説における一番の謎はやはり最後の部分でしょう。

 列車が通り抜けていくのを、鈴木はじっと眺めながら、「それにしてもこの列車、長くないか」と、亡き妻に向かってこっそりと言う。
 回送電車は、まだ通過している。(P335)

この妙に思わせぶりで不可解な部分です。
列車の通過の長さに関して、物語中盤に鯨の幻覚という形で、唐突に重要な示唆がなされています。

 「兆候はあるんですよ、幻覚のしるしは。例えば、街で立っている時に、目の前の信号の点滅がちっとも止まらなかったり、歩いても歩いても階段が終わらなかったり。駅にいる時も、通過する列車がいつまで経っても通り過ぎない、とか、この列車ずいぶん長いなあ、なんて思ったら、まずい兆候ですよ。そういうのは全部、幻覚の証拠です。信号や列車は、幻覚のきっかけになりやすいんです。信号はたいがい見始めの契機で、列車は目覚めの合図だったりします」(P165)

かなり具体的に言及されており、また信号や列車など対応する場面も作品内で描かれているので、この部分は作者からのヒントと考えてもいいと思います。

ネット上で見られた意見では、最後の場面が幻覚のきっかけになっている、というものや、妻の死をきっかけに幻覚を見るようになり、この小説自体がすべて鈴木の幻覚だったというものがありました。

しかしP165の記述を見る限り、列車はあくまでも目覚めの合図です。
そうすると幻覚を見始める契機は信号の点滅が止まらないことと考えるのが妥当です。
本書の中で信号の点滅に言及している場面が一箇所だけあります。

 茫然とした気分で、フロントガラスを眺めた。交差点の歩行者用信号の青色が、点滅をはじめる。その点滅がゆっくりに見える。いくら待っても赤にならない。
 この信号いつまでゆっくり点滅しているんだよ。(P22)

なんと物語の導入部ともいえる場所で信号が点滅を続けています。
まだ鈴木の復讐相手である寺原(長男)は死んでいません。
この場面は寺原の組織の比与子という女性に、鈴木が復讐のために潜入しているのではないかと疑われている場面です。
そして比与子から、拉致した若者を殺すことで疑いを晴らすよう迫られている中で信号の点滅が始まります。
要するに元々は善良な一市民である鈴木は、したくもない殺人を迫られ進退窮まっているわけです。
現実逃避にはもってこいの場面でしょう。
さらに物語の終盤で、ここで殺すよう迫られた若者が実は殺し屋で、組織の社長である寺原を暗殺して逃げた、という何とも都合のいい展開まであります。


幻覚の始まりと終わりは分かりました。
では物語の中で鈴木の幻覚である部分はどこなのでしょうか。

作品内で鯨が見る幻覚は、自分が自殺させた人々です。
現実の生活の中で突如その人々が現れ、鯨に話しかけてきます。
そしてその間は現実世界に対する認識は非常に弱まります。
ただしあくまでも自分のいる場所に幻覚が現れるだけです。

もし鈴木もそうだと考えた場合、説明がつかないことが多々あります。
鯨の見る幻覚は現実に干渉してきますが、その場面で行動を起こし場面を展開していくのはあくまで鯨自身です。
しかし鈴木の場合は到底自分の力ではどうしようもない状況です。

幻覚に関して、言及している場面がもう一箇所あります。

 「そのうち幻覚に人生そのものを呑まれてしまいます。気をつけないと。どちらが現実か分からなくなって」(P165)

鈴木は信号の点滅の場面以前がほとんど描かれていません。
この時点で幻覚の症状が鯨と比べてかなり悪化していた可能性もあるわけです。
そうすると信号の点滅以降すべてが幻覚と考えることもでき、むしろその方が納得できるような気がします。
要するに人生そのものを呑みこまれているわけです。

以上のことから、殺しを迫られた鈴木は幻覚を見始め、それが物語として描かれたと考えます。
よって列車によって幻覚から目覚めた鈴木の横には、殺しを迫る比与子がいるのではないでしょうか。

救いのない結末ですが、伊坂幸太郎はこういうことをしてもおかしくないと個人的には思います。

引用部は全て
伊坂幸太郎 『グラスホッパー』 角川書店
より引用しました
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comment (3) @ 小説

[映画] ブラインドネス鑑賞

2010/04/03
ブラインドネス鑑賞しました。
この映画非常に重かった...見るのにはかなりエネルギーが必要です。
日本から伊勢谷友介と木村佳乃が出演したことでも話題になりました。

以下ネタベレを含みます。

ストーリーは一人の男(伊勢谷友介)が失明するところから始まります。
医者も原因が分からずとまどっている中、診断した医者を始めその男に接触した者たちが次々に失明していきます。
失明は原因も分からぬまま感染性のものであることだけが明らかになり、国中で感染が広まっていき感染者は隔離されます。

隔離された場所はもともと精神病院だった場所で、劣悪な環境です。
外では軍が監視していて少しでも外に出ようとすれば問答無用で射殺されます。
最初に男を診断した医者の妻は、なぜか感染しないのですが夫を思い失明したと偽って夫ともに隔離場所に向かいます。

徐々に感染者たちが集められるにつれ部屋ごとにコミュニティができ、その間で対立も生じます。
医者を中心にあくまで民主主義的な方針をとる第一部屋に対し、第三部屋は王を自称する男が現れ、銃を背景に食料の独り占めを始め圧制を開始します。
王たちは最初食料と引き換えに金品を差し出させますが、それが尽きると今度は女を差し出すことを望みます(ここら辺は見ていて本当にしんどいです)。

そんな中ついに第一部屋の住人たちも反旗を翻すことを決意して、第三部屋の住人たちがいる場所に向かいますが、そこで火事が起こり(見ていて火事の原因がよく分からなかったです)第三部屋の住人たちはあっけなく死んでしまいます。

住人たちは外で見張っているはずの軍に助けを求めますがなぜか反応がありません。
そこで外への扉を開いてみるとあっさりと外へ出られます。
唯一目が見える医者の妻をたよりに自分たちの住んでいた街に向かいます。

街は荒廃しており人々は皆失明していました。
そこで何とか食料を集めたところで雨が降ってきて、人々は笑顔で雨に打たれ体を洗い流します。
医者の妻たち一行は医者の家へ向かい、そこで一緒に暮らすことを決めます。
皆心の繋がりを持ちそれなりの平穏を得たところで、最初に発症した男が急に視力を取り戻し、皆自分も視力を取り戻せる希望を持ち、医者の妻は次は自分の番だと空を見上げる場面で物語は終わります。

以下考察。

皆が視力を失ったとき世界の様相は一変します。
見てくれを気にしなくなり全裸で生活する人もいるくらいです(医者の妻が失明していないということは極一部の人しか知りません)。
そんな世界では逆に一人目が見えることは少数派であり、一体感を一人だけもてません。
そしてもうひとつの逆説として、この施設には元々盲人だった老人が一人紛れ込んでいて、彼は目が見えないことに慣れているので皆が急に失明した世界では権力者となります。
人間の今ある強さや弱さなど脆いものである、という示唆に思えます。

さらにこの映画では目が見えなくなったときの人間の弱さが描かれているように思えますが、それはちょっと違うんじゃないかなと思います。
目が見えなくなったことで起こる出来事は皆僕たちの日常でも十分起こりうる出来事じゃないかと思います。
つまり元々ある欲に過ぎないと思うのです。
目が見える見えないに関係なく、人間は弱いものであるという事実を描いたんじゃないでしょうか。

ただそれだけではなく、目が見えないことで本当の絆を得る人々もいます。
そこに外見や地位、歳や人種は関係ありません。
その傍証として、最後に医者の家に集い真の絆を得る人々は人種も歳もばらばらです。
そしてこの作品では登場人物には一切名前がありません。

もうひとつ作中で重要なのは雨のシーンだと思います。
最後ら辺で皆が雨に打たれる場面は一見しただけでは全く意味が分かりませんでしたが、かなり重要なシーンだということは推測できました。
その直前に「パウロの回心」の話が描かれていたことと合わせて考えると、やはりキリスト教をモチーフにして考えるべきだと思います。
キリスト教の知識がここでもまた必要か!と思わされましたが、だとすると失明の原因は神の仕業だったと考えるべきでしょう。
神は人間が目に頼り、物事や人の本質を見ることのなくなった人類に対する一種の戒めだったのではないでしょうか。
そして最初に失明した男が視力を取り戻すのは、目に頼ることなく本当の絆を得ることで神の赦しを得たのではないでしょうか。
ただ作中で「パウロの回心」の場面で、神の罰ではないと言われていたのでちょっと微妙な解釈ですが。
comment (0) @ 映画